芸術の秋。
ぜひ行こうと思っていた、
「貴婦人と一角獣」展(大阪・国立国際美術館)に行ってきました。
7月からの開催でしたが、暑い中大阪市内に行くのが嫌で。(ヘタレ)
ヨーロッパの貴族の館にはたいてい、タピスリー(タペストリー)という、
重厚な織物が飾られています。
そのなかでも最高傑作といわれる、フランス国立クリュニー中世美術館所蔵の
「貴婦人と一角獣」の連作タピスリー。
チラシの写真ですが↓
人間の五感「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」をあらわした5枚と、
「わが唯一の望み」というテーマの1枚。全部で6枚あります。
わたしは特に中世の文化が特別好きというわけでも、織物に詳しいわけでもありませんが
20代のころ読んだ、辻邦生の「廻廊にて」という小説のクライマックスシーンに
このタピスリーが出てきたのを覚えていました。

このタピスリーがフランス国外に出たのは1度きりで、
一生見れないかもしれないと思っていただけに、嬉しかったです。
ジョルジュ・サンドやメリメの著作(どちらも読んだことありません)
機動戦士ガンダムにもこのタピスリーは出てきたそうですね。
辻邦生は、「違いがわかる男のGブレンド」のテレビCMにも
たしか出てたような気がする有名作家ですが、
なんと、近代文学賞を受賞した出世作ともいえるこの「廻廊にて」が
絶版になっていてビックリしました。(小説家も大変だなぁ・・。)
内容は、素晴らしい才能をもちながら夭折した、亡命ロシア人の画家・マーシャの
内的彷徨を描いたものです。
読書感想文が大の苦手な私には、この本の魅力をうまく表現できず残念です。
私にとって好きな本というのは、視覚的なイメージが豊かに浮かぶ文章でつづられたものです。
この本はとても美しいシーンがいくつも出てくるのですが、私には表現できないイメージなので、
最新のアニメ技術で綺麗な映像にしてほしい。
すごく絵の上手い・・内田善美さんか萩尾望都さんに、漫画にしてほしい・・。
テーマもとても深くて、語りだすと長いです。(笑)ちょっとこのブログでは言い表せません。
電子図書で生き残ることができたらいいのですが・・・興味のある方はぜひとりよせて読んでみてください。
マーシャの日記の部分の文章が仮名で書かれていて読みにくいのですが、
そこが特に美しい文章なので頑張ってください。
秋の夜長にぴったりの小説です。
ところで、このタピスリーにはインコが出てきます。
「味覚」のタピスリーで、砂糖菓子を貴婦人にもらうインコ、
これ、わたしにはサザナミインコに見えます。(画像はグッズのクリアファイル)
また、このタピスリーのほかに同時代のタピスリーが何点か出てますが、
そのなかの1枚の、木のなかから頭を覗かせているオウム、
たぶんヨウムだと思います。
なぜか一番重要な赤いシッポが隠れてしまっているので特定には至りませんが。
植物やほかの動物も、まるで図鑑のように
種類を特定できるくらいリアルに描かれていて見応えがあります。
会場は60代後半~80代の高齢女性が多いように感じました。
この年代はなぜかゴブラン織りとか、ヨーロッパの織物が好きですね。
それと、見ていて思いましたが
美しい衣装と装身具をつけた少女、可愛い動物、草花。
少女漫画の基本構図ですよね。(笑)
タピスリーは中世における嫁入り道具のひとつだったみたいですが、
今も昔も、女性の好むものは変わらないのかも、と感じました。
追記
辻邦生 著 「廻廊にて」のなかでこのタピスリについて書かれた部分を抜粋しておきます。
(原文のこの部分は主人公の最後の手紙なので、カタカナで表記されています。)
*****
そこは光溢れる、美しい、輝かしい広間でした。
広間には誰一人見当たりませんでした。
音楽は、その清らかな天井から、私たちの上に、静かな調べで、鳴りつづけていました。
しかし、その広間が私を喜ばしたのは、それだけではありません。
広間の大きな壁面を覆って、美しい六聯(れん)一組のタピスリが、
まるで空から花の降りそそぐような思いに、私を誘ったからでした。
それは、どの一枚にも、浄らかな娘が一角獣に守護されて、
あるいは、花を摘んで花環を編み、あるいはオルガンで甘美な調べをかなで、
あるいは小鳥たちに餌を与えているところなのでした。
花々はどの構図の全面をも埋め、軽やかな花々の降りそそぐ中に、兎や犬がたわむれ、
浄福の香気が豊かに漂っているのでした。
(中略)
「総てのものは、繰り返される。単なる流転こそが、物の宿命なのだ。しかしこれは別だ。
このタピスリの空間は、生まれた時に、自分固有の未来を持ち、
自分の宿命を成熟する方向へ歩みつづけている。
私が、今、これに出会うまで、このタピスリは、すでに、
純粋な美しさを(現在)の表面に浮かべるまでの何百年に亙る長い時の空間を歩いてきたのだ。
おそらく明日再び、これとめぐり会うとき、これは、それだけ又稠密(ちゅうみつ)な時間の旅をしているのではないだろうか。
私たちにとって、一日は繰り返しであり、朝に戻ることであるのに、
これだけは、自分の新しい時間を、自分の未来と宿命の成熟の方向に向かって、きり開いてゆく。
これだけが(与えられた時間ではなく)自分固有の時間をもち、自分であることを歓喜し、
自らの成熟へと永遠に上りつづけてゆく。
これこそが「美」であり、美の意味であり、美の本質なのだ。」
その時私が考えたことは、ざっとこんなようなことだったでしょうか。
中略
私は、自分が説明しがたい平静さ、勇気、清朗さに充たされているのを感じました。
今まで感じたどの様な歓びよりも、魂の奥底まで、深く沈んでゆくような気がしました。
それは、おそらく私が、この滅びの現実に居ながら、花々の降りそそぐ永遠の空間に、
生きているという実感に刺し貫かれていたからでした。
あの浄福の若い娘が一角獣に守護されている図柄は、万物の照応する一点
ー美ーに護られている人間を象徴するように思われました。
*****
人間の一生はあっという間で、
どの時代もたくさんの芸術家が多くの作品を生み出しているが
そのなかで長い時間を生き残ることを許される作品は僅かです。
このタピスリはそのひとつだといえるでしょう。
この圧倒的な時間の重みをもつ作品の前で
私などはほんとうに取るに足らないけしつぶのような存在のひとつにすぎません。
でも、私の作品が、私の一生が終わり、その名前が忘れ去られても、
割れてなくなる日まで、見た人を微笑ませる作品でありますように。
今与えられたこのときを大切に、
ひとつひとつ丁寧に作品を作りつづけていきたいと思います。